恋愛ものの楽しみ方
ちゃんと思ったことはまとめようってことでまとめてみたり。
今、社会復帰に向けてお勉強してるけど、パソコン使えるし暇な瞬間あるし、今までよりも書ける瞬間はありそう。
ってわけで「恋愛もの」の楽しみ方についてなんだけど。
別にそんなに難しい話じゃないんだけど無料で読んでる「ハチミツとクローバー」を読んで、あの辺りの物語ってこう物語自体が面白いかとかもそうなんだけど、結局のところエッセンスが大事なんだろうなって思った
で、それをきっかけに自分の中の恋愛体験と重なる部分がにじみだして着たりして、なんか一種の「あまずっぱさ」みたいなのにつながって、多幸感を得られるんだなぁと
当たり前のことなんだろうけど、今更気づいた。
だから俺の中でいうところのアンナ・カヴァンの『氷』みたいに、実際のところキャラクター付けは一切なくて、そういうエッセンスだけ分泌しまくればたぶんウケる層にはウケるんだろうなって思うし、無味無臭みたいな作品がそうした経緯から生まれてるんだろうな(恋愛漫画読んでないし、ドラマもみてねーし完全に偏見だけど)と思った
これは青春物とかも同じことが言えるんだろうね。こわいね
『ボヘミアンラプソディ』を観てきた
『ボヘミアンラプソディ』を観てきた
流石にスクリーンで観るべき映画だろうと思っていたので『ボヘミアンラプソディ』を映画館で観てきた。
友人に観に行こうと誘われて(結果その友人とは観に行かなかったけれど)何もクイーンを知らない状態からクイーンのオススメ曲を聞いてyoutubeで作業用BGMとして数か月垂れ流してから臨んだ。結果として大正解だったと思う。面白かった。因みに普段あんまり創作物とかで泣かないんだけど五回くらい泣いた。
一回目は序盤の最後かな?
厳密にはこれじゃないのか脚色してんのか分からないんだけどyoutubeで垂れ流してたら流れてきたこれのシーン
作中では国外ツアーにでかけてる最中に「本当に俺の歌詞が伝わってんだろうか?」と思い悩んでいたところにライブ会場の観客が歌いだした=自分の悩みは杞憂だった。と分かるシーンに用いられていたんだけど、最近こういう創作物に対する受けて側のアクションの仕方みたいなのに弱すぎて泣く。
後はもうベタなんだけどフレディがエイズになって余命僅かなことが判明してからのライヴエイドのシーン。
口では「憐みも慰めの言葉も要らない。俺がやることは残された時間で音楽を作るだけだ」とバンドメンバーに語るフレディなんだけど、ライブエイドのシーンで流れる”ボヘミアンラプソディ”の歌詞はフレディが現状とは関係ない遠い昔に作った曲であるにも関わらず、今のフレディの心の叫びのようでボロボロ泣いてしまった。
そのあとの『We Are The Champions』の力強さ
そしてスタッフロールで流れる『Don't Stop Me Now』の魂が浄化されていく感じ。この曲一つで(史実的にどうだったかはともかくとして)この物語は救われたように思える
『Moon』『すばらしきこのせかい』がそうだったから改めて思うんだけど、トゥルーエンドの作品、それがバッドエンドに近ければ近いほどEDの曲は救いを感じる曲にして欲しいよね。特に『Moon』の『KERAMAGO』はそれまでの内容を全て吹き飛ばすくらいにゲームと魂の浄化を感じたhttps://t.co/hD0FwJqLNQ
— akito (@Akatsuki252) 2019年3月22日
丁度映画観に行く前に考えてたことなんだけどこの映画の『Don't Stop Me Now』まんま当てはまるなぁと思ったりした
後はまあ垂れ流してたって言ってもフレディの顔はかなり見たので役者との差で違和感が結構あったんだけど、逆にそこまで印象に残ってない他の三人に関しては若干見覚えがあるからこそ本物にしか見えなくて、映画の途中でフレディだけ役者でそれ以外のキャストは本人みたいな変な錯覚に陥ってた。
ま、そんな感じで最後のライブシーンとかはライブバージョンになっててそこに「おおっ」ってなるのもCD音源ある程度聞いてるからこその気づきだと思うし、最低限そんくらいはしてから観に行ったのは正解感ある。クイーンある程度好きな人はちゃんとやってるうちに映画館行きましょう。俺は前述した通りクイーン全然聞いたことなかったけど、だいぶ好きになってしまったなぁ
夏目漱石『抗夫』
読んでいる途中から「この作品つまんなくない?」とは思っていてカップ麺のフタとして一生を終えさせてやろうかとも思ったのだけれど、終わりまで読み切らなければ面白さが分からないだろうというオタク特有の考えと、貧乏性も相まって最後まで読み切った。結果としてつまなかったのだが巻末についていた解説を読んで納得した。
この『抗夫』は新聞の連載作品として掲載されたのだったが、元々漱石が寄稿する予定はどうもなかったらしい。本来寄稿すべき予定だった作家があまりにも筆が乗らず、連載の目途も立たないというところで急遽漱石に白羽の矢が立ったというわけである。
とはいうものの漱石自身特別掲載しようとしていた作品があったわけでもなく、頭を悩ませていたところ当時書生をしていた人間の過去を小説いしようと思い立った、というのが大雑把なのだがこの作品が生まれるに至った経緯である。
そのためこの作品はおはなしとしての基本原則起承転結であるとか、そういった小説が物語であるがためのストーリー性の全てが欠けている。ただ一人の裕福な家庭に生まれた若者がわけあって出家し、抗夫になろうとする事実を淡々と綴り続けているだけである。
解説には漱石がこの話を小説として体を成すためにどういう技法を編み出したのか、この経験がなければ後の三四郎以降の作品はなかったのではないか、そういう意味でこの『抗夫』は漱石の作品の歴史において非常に重要な作品と言える。というような話をしていたが、そんなものはただの一人の本読みである僕には関係なく、この作品はストーリー性の欠如した駄作である。もしかしたら更なる被害者が生まれることを未然に防げるかもしれないのでこの文章を読んでいる人たちには言っておくが『抗夫』の正しい用いり方はカップ麺の蓋であり読書のためのものではないとハッキリと述べておく。読むのは他の漱石作品を全て網羅してからでも遅くはないと思うよ。マジで。
でも、こんな愚痴だけだとちょっとつまらないからちょっと関係ない言いたいことを書くよ。
漱石の作品は他に『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『こころ』くらいしか読んでないからなんとも言えないんだけど『こころ』はすごい好きなんですよね。ただ、この作品って現代において死ぬほど損してる作品だと思うんですよね。だって教科書に載ってるじゃないですか。しかも一部分だけっていう。
一応知らない人のために書いておくと『こころ』は三部構成の作品なんですよ。一部と二部で『先生』と呼ばれる人間が語り部から見て申し分ない知性と品性を持ちながらも常日頃「自分はつまらない人間です」であるとか「許されない罪を犯したのですよ」みたいなことを言うんですけど、それが明かされるのが三部なんですよ。で、教科書に載ってるのがこの三部なんですよね。いやホントバカなんじゃないかなって思いません? で、これ読んで漱石のこころを分かった気になってるやつが大半なんじゃないかと思うんですよ。いやホントバカなんじゃないかなって思いません?
Kと先生の関係とか、正直俺はどうでもいいと思っていて『先生と語り部の関係性』『先生と妻の関係性』辺りがこの作品の肝要だと思っているし。
勿論三部から読んで一部と二部を読むっていう導入にうまく出来るなら別に順序逆でもいいとは思うけど、人間「なんとなく自分が知っていると思い込んでいるもの」って結構手を出さないじゃないですか。俺自身そういうところはあるし。例えば学生の頃に結構映画見たつもりでいるんですけど、何かのゲームのながらとかで見てたことが多いせいで殆ど印象に残ってないんですよね。でも「〇〇を観た」っていう実績は自分の中で解除されてるし、再度見ようとする気ってあんまり起きないんですよね。なんならながらだからこそ「あんまりおもしろくなかった」みたいな印象が強いですからね。
ひと昔前に問題になった漫画村とか、或いは合法的なサービスでも最近はNetflixとかamazonprimeのビデオとかあるじゃないですか。ああいうのってまあ「数を読む(観る)程、得をする」っていうコンテンツだと思うんですけど、そうやってながら消費してしまって「消化した」っていう実績だけが残ってしまうのが一番恐ろしいことだと個人的には感じる。まあ漫画村とかはそもそもアレだけど、でも極論消費者側からすると関係ないっちゃないわけじゃないですか。でも、そういう視点では非常に危険なものだったと思う。全然関係ない話になっちゃったけど、漱石の『抗夫』を読むくらいならホント時間の無駄なんで『こころ』を読んでくださいって話でした。教科書で読んでつまんなくても面白いから! 頼むよ!
『はつ恋』ツルゲーネフ
あらすじ
『はつ恋』は語り部であるウルジーミル・ペトローヴィチと家の傍に引っ越してきた隣人ジナイーダとの恋愛模様を描いた恋愛小説である。
この物語は四十がらみの黒髪に白を交えた独身者――本作の語り部であるウルジーミル・ペトローヴィチの過去の回想という形で始まる。
故に以降に語られる隣人ジナイーダとの”はつ恋”はどのような形にしろ失恋に終わるという前提の元に話が進められるわけである。
ペトロヴィチは当時16歳の少年であり地主貴族の子だった。彼には母と、その十も年下であり美男子である父がいた。父は財産目当てで母と結婚していたのだった。
隣人のジナイーダは21歳でありペトロヴィチから見ると五つ年上だった。彼女の家は貧乏貴族であり彼女の母である侯爵夫人と小間使いと暮らしていた。
ジナイーダをペトロヴィチの母は後に『男たらし』と罵る。これは非常に的を射た発言で彼女の回りには常に眷属とでも呼ぶべき取り巻きの男達の姿があった。出会った側からジナイーダに魅了されるぺトロヴィチもまた彼女の眷属になっていく。
あるとき、彼女の様子がおかしいことに従者達は気がつく。そうして誰もが確信する。ジナイーダが恋をしていることに。それが自分達のなかにいるのか、他の男なのかは定かではないかそれだけは確かであると。
ぺトロヴィチは夜間、木の上に登りジナイーダを監視するようになる。監視が何日が続いたある夜、彼女のもとへと忍んでいく男の姿を目撃する。しかし驚くべきことにその男は父親だった。
彼女と父親との関係は次第に明るみに出るようになり、ぺトロヴィチの一家は引っ越しを余儀なくされた。
それから四年たったある日、ぺトロヴィチはかつてジナイーダを囲っていた一人の男に出くわす。彼はジナイーダが役所勤めの男と結婚し、近くのホテルにいるのだと言う。
会いにいこうと思うぺトロヴィチだが、予定が会わず面会を申し込みに行ったときには話を聞いてからすでに二週間が経っていた。
そこで彼は入り口番から驚くべき言葉を聞かされる。ジナイーダは四日前に産のために死んだのだと。
ぺトロヴィチの『はつ恋』はそこで終わる。
ジナイーダの魅力について
ジナイーダがとにかく魅力的である。
上記のあらすじの中でジナイーダに従う男達のことを僕は『眷属』と表現したがこの言葉は当然作中には一回も出てこない。でも、現代のオタク的には眷属が一番近いニュアンスを得られそうな気がしている。
そのくらいジナイーダが魅力的なんですよ。一言でのべるなら『近所に住んでるえっちなお姉さん』なんですけど、別に眷属の誰かと関係を持っているわけでもないし、そこまで色仕掛けのようなことをしてくるわけじゃないんですけど、まあとにかくえっちなんですよ。
16歳のぺトロヴィチが夢中になっちゃうのは分かるんですけど、軽騎兵の青年から医者詩人、40過ぎの伯爵までもを虜にしているのだから彼女にカリスマ性があるのは疑いようがない。
俺の知ってるキャラの中だと多分FGOのメイヴが一番近い気がする。
彼女の家にやってくる男という男は、みんな彼女にのぼせあがっていたし、彼女の方では、それをみんな鎖につないで、自分の足もとに飼っていたわけなのだ。そうした男たちの胸に、あるいは希望を、あるいは不安を呼びおこしたり、こっちの気の向きよう一つで、彼らをきりきり舞いさせたりするのが(それを彼女は、人間のぶつけ合い、と呼んでいた)、彼女には面白くてならなかったのである。しかも男たちの方では、それに抗議を申し立てるどころか、喜んで彼女の言いなりになっていたのだ。溌剌として美しい彼女という人間のなかには、狡さと暢気さ、技巧と素朴、おとなしさとやんちゃさ、といったようなものが、一種特別な魅力ある混じり合いをしていた。彼女の言うことなすこと、彼女の身ぶり物ごしのはしはしにも、微妙な、ふわふわした魅力が漂って、その隅々にまで、他人には真似のできぬ、ぴちぴちした力が溢れていた。彼女の顔つきも、しょっちゅう変って、やはりぴちぴちしていた。それはほとんど同時に、冷笑を表わしもすれば、物思いを表わしもし、情熱の表情にもなるのであった。
上記の描写とか結構”ぽい”気がしてる。メイヴ好きの知人曰く「一番欲しいものを手にいられない強い女」ってところが好きらしいんですけど、ジナイーダには近しいものを感じる。
この物語の素晴らしい点は結末として(読み順的には冒頭がということになるのだが)ペトローヴィチはおそらくこのはつ恋に縛られた結果、40過ぎにも関わらず独身者として存在しているということである。
ラスト直前別れる前のジナイーダにぺトロヴィチが言った『ジナイーダ・アレクサンドロウナ、あなたがたとえ、どんなことをなさろうと、たとえどんなに僕がいじめられたろうと、僕は一生涯あなたを愛します、崇拝します』の言葉通り、その”信仰”は現在進行形でペトロ―ヴィチの人生を蝕んでいるのである。人生のどこかで彼がジナイーダと話す機会があれば、その信仰もまた過去のものになったのかもしれない。
しかしながらその機会すら失ってしまった今、その信仰はこの世に存在する何よりも美しく、そして何よりも醜悪だった。そのペトローヴィチの姿を憐憫に思うと共に僕は酷く共感を覚えるのである。
狭き門 ジッド
早く父を失ったジェロームは少年時代から夏を叔父のもとで過すが、そこで従姉のアリサを知り密かな愛を覚える。しかし、母親の不倫等の不幸な環境のために天上の愛を求めて生きるアリサは、ジェロームへの思慕を絶ち切れず彼を愛しながらも、地上的な愛を拒み人知れず死んでゆく。残された日記には、彼を思う気持ちと”狭き門”を通って神へと進む戦いとの苦悩がされていた……。
巻末に添えられている解説に『これについては語りたくないほどな書物、読んだことさえ人に話したくないほどの書物、あまりに純粋であり、なめらかなるがゆえに、どう語っていいかわからないほどな作品』との一文があるが正しくそのような物語のように思える。
まず、第一にこの物語はけして悲劇とも言い切れない。
アリサに関して言えば自分が望んだ道であり、ジェロームからして見ても精神的な被害を受けたにしても次の女性を見つけ結婚すればいい。
そういう問題ではない。ということは理解している。しかしながらアリサはただジェロームのさしのべる手を掴むチャンスは何度もあったし、ジェロームがアリサの死後恋人を作らずアリサの思い出――生きた道に操を立てているのは本人達の意思に他ならないのであるから。
だからこの物語は”どう語っていいか”分からないのである。
アリサが可哀想だ。というのはお門違いだし。かといって幸福であったかと言われれば首を縦に振ることも出来ない。
ジェロームは個人的な意見を言わせて貰えれば「とんだ地雷女を選んでしまったな」という感想なのだけれど、とうの本人は別の女性を選んでおけばよかったなどという後悔は全くないだろう。
上記のあらすじを見ていただければわかるようにこの物語の最終章は『アリサの日記』という形式で綴られていく。ちなみにこの物語は約221Pに渡って構成されているがアリサの日記が始まるのは182Pからである。従って僕は上記のあらすじが本の裏に書いてあることに気づき大変憤慨した(ちょうどそれに気付いたのはアリサの日記の項にたどり着いたときだったが)。
というのも誰がどう考えてもこれまでの腑に落ちないアリサの言動、行動(ジェロームへの好意を持っていながら婚約を忌避する様)に対しての答えがそこに示されており、すべての謎は解決しこの物語が正しいエンディングに向かうように思えたからだ。手紙にてアリサの訃報を知り、主人公(と我々読者)の目の前に突然その日記が現れるからこそいいのであり、最初からネタバレをしてたら興ざめもいいところだからだ。
しかし、良くも悪くも僕のその期待は裏切られた。日記を読んでもアリサがなぜジェロームを拒絶するのかが理解出来なかったからである。
というのもアリサが何故ジェロームとの婚約に応じなかったのかという理由に関してはきちんと明記されてるにも関わらず僕がそれを一切理解することが出来なかったからだ。
上記のあらすじに寄るのであれば信仰のために地上的な愛を拒んだからである。
しかしながらそれは厳格なプロテスタント主義から来る思想であり、宗教観に乏しい我々いえろーもんきーには理解出来ないのだろうということでそこで考えるのを諦めた。
以下に僕が読書管理をしてるサイトからいくつか拾ってきためぼしい感想を置いておく。あっているかはともかくとして大体こんな感じなんだろうと思う。巻末にジッドの生涯が記載されてるあたり、最後の感想の最後の文なんかは概ね正しいように思える。
まあ、でもぶっちゃけると個人的には意識高い二人の恋の末路って気がするんだよね。理想の女性のために理想の男性になろうとするジェロームと、理想の女性のために理想の男性になろうとするジェロームに対して理想の女性になろうとするアリサ(以下ループ)みたいな。
本質的にはそういうことじゃないんだろうけどね。
『デミアン』ヘルマン・ヘッセ
というわけで課題図書の雑感想。
まず、前提としてヘッセ自身が神学校に通っていた経験があることから作品の根幹に非常に強い宗教観を感じる。故に宗教観に疎い我々いえろーもんきーにとって理解しがたい葛藤もしばしば出てくる。しかしながらそこを学ぶ、という意味も含めての名著なのかなとも思う。
この物語は主人公シンクレールの成長譚である。最初ヘッセはこの本をシンクレール名義で出版社に送り付けたらしく『著者シンクレールの独白』という形で物語が綴られていく。
幼少期のシンクレールはこの世界を”二つの世界”として見ていた。
一つは『父の家』である。彼は自分自身の家を明るい世界とした。『義務と罪、やましい良心とざんげ、ゆるしと善意、愛と尊敬、聖書のことばと知恵』とがある明るい清らかな、美しい、整った世界である。
もう一つの世界はそれ以外である。
そこには、並外れた、そそのかすような、恐ろしい、なぞめいたことが、色とりどり無数にあった。屠殺場と監獄、酔っぱらいと口ぎたなくののしる女、お産する雌牛、倒れた馬などのようなもの、押し込み強盗、殺人、自殺などの話があった。
しかしながらその世界は外の世界は勿論のこと家に住まう女中や職人の弟子なども含まれていた。明るい世界ともう一つの世界(ここではわかりやすく暗い世界とする)は隣り合わせだった。一人の女中は母と話したり祈りを捧げるときは明るい世界に属していたがゴシップを話しているとき、あるいは誰かと言い争いをしているとき、彼女は暗い世界に属していた。シンクレール自身も同じだった。『それは私にはしばしば親しめず気味が悪かったにせよ、私はときおり、何よりも好んで、禁じられた世界で暮らした』
この義務と罪~から始まる世界を明るい世界とし、それ以外の罪を暗い世界とハッキリ分けるのは宗教的考えが色濃く表れているように思える。(故によくわかんねぇ)
それ以外の”禁じられた世界”に惹かれる想いは意味が分からないにも関わらず、エロ本に強く惹かれる小学生みたいなもんだと思うし、そういった経験は誰しもが知ってると思うので割愛する。
ラテン語学校に通うようになったシンクレールはある事件をきっかけとして自分より年長の学生であるデミアンと知り合う。
彼は聖書におけるアベルとカインの話はまったく別な解釈をすることも出来ると話す。彼はカインの顔には聡明なしるしのようなものがあり、それを人々は恐れたのだという。
それは年よりも大人びており、周囲に溶け込めていないデミアン自身の話なのではないか? とシンクレールは考える。しかしながらそれ以上に”聖書の別解釈”という考えと”悪とされていたカイン(=シンクレールの考える暗い世界)を肯定する考え”は彼に大きな影響を与えたのだと推測できる(無宗教マン)
そこからデミアンとシンクレールの関係は断続的になる(彼らは親友になりいつも一緒にいる、などということはなかった)
そのあと、そんなに面白い話がないんだけど一つ面白いなと思ったのはシンクレールが少年塾(多分今の高校くらい?)に行ってたときの話。
シンクレールは酒に溺れ、乱れた生活を送っていた。彼は善き生徒ではなく教師から見ても生徒から見ても退学は秒読みというところだった。
しかしながら彼はある出来事をきっかけに立ち直る。彼は一人の少女に恋をしたのである。
この恋はうまくいかなかった(どころかシンクレールは声すらかけなかったので名前すら知らなかった)が彼の人生に大きな影響を与えた。シンクレールは彼女にダンテの神曲に因んでベアトリーチェと名づけ彼女を崇めた。
『私は性欲のもとに悩み、たえずそれからのがれていたが、いまこの神聖な火の中で、性欲を変容させて、精神と礼拝にしようと思った。』
っていう独白が出てくるんですけど、これめっちゃ拗らせたオタクっぽくないですか?
なんなら今の僕自身が『エスちゃんさいかわでめちゃめちゃ好きでしょうがないんだけど、これに対する情熱にかこつけて過去の名著を学ぼう』みたいな感じなんですけど似通ったものを感じる。
まあだいぶ違うかなとも思うけど、こういう”暗い感情”を捻じ曲げてプラスに持ってこようとしたり、名前も知らない女にかってに名前つけて糧にしてるの、やっぱりオタクっぽくて好き。
その最中シンクレールは理想のベアトリーチェを描こうと絵を始めたり、色々活動的になっていくのだけれどこの辺りから物語の焦点が『宗教的な善悪のものの見方』から『自我の探求』に映っていく。
そして、シンクレールの信仰対象は神格化したベアトリーチェから徐々にアプラクサスという神と悪魔の二面性を持った存在へとシフトしていく。
(これも割とオタクがこねくりだした理想論にきちんとした名前がついて力を増したって感じで好きなんだよな)
各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一時あるのみだった。
詩人にとして、あるいは気ちがいとして終ろうと、預言者として、あるいは犯罪者として終ろうと――それは肝要事ではなかった。
最終的にシンクレールは『自我の探求』に対して上記のような結論に至る。『はしがき』として最初の数ページにこうも書かれている『どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかしめいめい自分自身になろうと努めている』
したがってこれこそがヘッセのこの時点での『自我の探求』としての結論のように思える。
どう切り出したらいいかわからなくて端折ったけど、夢占い的な話が出てきたり思いのほか精神分析に傾倒している一冊だった。
ただ『ALTER EGO』がフロイト的考えを(おそらく)しているのに対して『デミアン』はユング的考えに基づく精神分析的な見地から書かれているように思える(たぶん)
因みに根拠はないんだけどなんでそんなことを思うかっていうと、ヘッセが1911年にスイスに移り住んでるのに対してユングは同年にスイスで国際精神分析協会を設立して会長になってるからってwikiに書いてあったからだけど!
でも当時よりも情報の伝達、明らかにおせぇだろうしデミアンが1919年に出版されたにしてもウィーンにいる奴より、同じスイスにいるやつの影響の方が高い気がする。知らんけど。
その辺りはまあ両方の入門書とか読めばわかるだろうし、メモとしてとりあえず残しておく。おしまい