ペットボトルロケット

創作物を咀嚼しては、ただ面白いとだけ吐き捨てた。

ペットボトルロケット

まだ六月にもなっていないというのに初夏を思わせるギラギラとした太陽光が降り注ぐ中公園を散歩しているとペットボトルロケットが空高く舞い上がっていくのが見えた。

彗星を思わせる速度で垂直に上昇していく流線型のペットボトルロケットを見て、僕は「青春」の二文字を頭に浮かべた。

無論、水と圧縮された空気の反作用を動力源とするペットボトルロケットと青春との間には何の因果関係もない。ペットボトルロケットが青春であるか否かを街頭アンケートで調査したとして否定意見が九割以上に上る結果に終わるのは火を見るよりも明らかだろう。

ならば、僕の人生の中でペットボトルロケットと青春に因果性を持たせるような何らかの出来事があったのかと考察してみるがすぐにそんなことはないという結論に至る。単純な話、僕の今までの人生の中で青春と関係のある出来事が一切なかったからである。

 ならば、青春を知らない僕がなぜペットボトルロケットに青春を重ねることが出来たのだろうか? もしかしたら、と僕は考える。僕は今、自分では気づいていないだけで青春の真っ最中なのかもしれない。だからこそ、自分の中に「青春」の二文字が浮かび、その言葉の納める場所を知らない僕はふと目に付いたペットボトルロケットにその言葉を当てはめたのかもしれない。

 

そんなことを思案しているうちに、H2Oをすべて吐き出したペットボトルロケットは空中で静止するとまるで僕のこれからの青春を暗示するかのようにまっさかさまに落下し始めた。

物凄い勢いで下降していくその流線型をした”青春”は地面にぶつかり「ガラン」と情けない音を立てると悲鳴を上げながら地面をのたうち回った。ゴロゴロと転がり、風前の灯のようにゆらゆらと揺れる”青春”は、やがて事が切れたかのように動かなくなった。

 

 

チンケでチープな名作ホラー

 

久々にPS2を引っ張り出して真女神転生3をプレイしていたら横で見ていた友人が「これって主人公が喋ったりするの?」と唐突に聞いてきた。しゃべらないと答えると友人は「そっか。じゃあ、主人公が何考えてるとかわからないんだね」と残念そうに言った。なるほど、そういう考えもあるのかと思った。ポケモン生まれドラクエ育ちイーグルランド住民は大体友達な、物心ついた頃から主人公の喋らないゲームばかりやっていた僕にとって、それは新鮮な感想だった。

 

 

そこでふとある考えが過った。

以前にプレイした「魔女の家」は相当完成度の高い「アクロイド殺し」なんじゃないか? と。

 

 

魔女の家はフリーのホラーゲームである。RPGツクールで作られたチンケなフリーのホラーゲームである。故に2Dドットで描かれた主人公は喋らないし、どんな危機的状況に陥っても顔色一つ変えない。仮に主人公がほくそ笑んでいようとも、腹を抱えて笑っていようとも我々の目には、緑色をした目が二つくっついた金髪の少女の無表情な顔が映るのみである。それ以外には何もない。だから、主人公がプレイヤーに対してどんな秘密を隠していたとしても我々は怒らないし、怒れない。彼女には語る術がないのだから。彼女には、チンケなフリーのホラーゲームのキャラである彼女には表情なんてものは与えられていないのだから。

 

しかし、アクロイド殺しのシェパード医師は許されない。彼には語る口がある。一人称の視点から事件を眺めているにも関わらず、彼は最後まで嘘をつく。だから我々は結末の瞬間に怒り、わめき、この作品はダメだと駄作の烙印を押すのである。

 

しかし、それはゲームだからこそ出来たものである。仮に何らかの形で魔女の家がノベライズ化やアニメ化などのメディアミックスを図ったとき、それは駄作の烙印を押されることになるだろう。故にけして魔女の家がアクロイド殺しよりも優れた作品だというわけではない。(ホラーの要素は省かせていただくが)作中に主人公の秘密を示唆するに十分なヒントは無いし、その秘密自体も後付けされたような、フリーのチンケなホラーゲームに相応しい大したことの無い内容である。しかしながら魔女の家がアクロイド殺しには出来なかった読者(プレイヤー)を納得させることができたというその事実にもまた、違いはないのである。

 

主人公が何も喋らない時、プレイヤーは「このキャラクターを自分の分身だと思って感情移入すればいいんだ」と勝手に思いがちである。意図したのかはさておき、魔女の家はそのプレイヤーの心理を逆手に取りプレイヤーを納得させた素晴らしい作品だと言える。魔女の家がフリーのチンケなホラーゲームであろうとも、そのことだけはハッキリとここに述べておく。

 

 

シェパード医師とザ・ワールド

 

 

 

 

あまり本を読むイメージの無い同僚に冗談めかして「最近何か本読んだ?」と聞いた所「アクロイド殺しを読んだよ」と予想の斜めを行く答えが返ってきた。びっくりしている僕を後目に続けて彼は「最高に面白かったよ」と笑って口にした。素直に羨ましいなと思った。

 

アクロイド殺しはミステリ界でも屈指と名高いクソトリックを内包した作品である。

本読みが数多のアガサクリスティ作品の中からわざわざ「アクロイド殺し」を手に取るときというのはいわば近所で美味しくないと評判のお店に「まずいまずいと言われているがどれほどのものか確かめてみよう」といった気持ちである。

それ故に、アクロイド殺しを何の前情報も先入観もなく、まっさらな気持ちで楽しめる人間というのは非常に少ない。

ジョジョの第三部にもこれと同じことが言える。我々がある程度サブカルの知識を得たオタクである以上、DIOの存在を知ったときにはすでにザ・ワールドの能力までもおおよそ把握してしまっている。皮肉にも僕たちが数ある漫画からあえて「ジョジョを手に取ろう」と思った瞬間にはすでにジョセフと一緒になってDIOの能力について考察する権利を奪われているわけである。

 

勘違いされないように言っておくが僕はけしてネタバレ否定派ではない。

ブレイブストーリーを読んだときなんかは両親が離婚するのを前もって知っていたがためにスリリングに読めたし、他にも良い思いをそこそこしているからだ。

 

しかしながら僕も、アクロイド殺しの犯人が明かされたときに「そうだったのか!」と感動、ないしはアガサクリスティに怒りをぶつけたかったし、DIOの能力について真剣にジョセフと一緒に考察した上で、花京院が吹っ飛ばされるのを唖然として眺めたかったのだ。

これは、僕にアクロイド殺しを素直に「面白かった」と言えた運の良い友人がいて、それを見て羨ましがっている男がいた。ただ、それだけの話なのである。