ペットボトルロケット

創作物を咀嚼しては、ただ面白いとだけ吐き捨てた。

無理を通して納得を得る

 

西暦1979年、機動戦士ガンダムは細部にまで拘ったその圧倒的リアリティから来る説得力によってテレビの前の人々を納得させた。何の必殺技を叫ぶこともなく、ザクを静かに一閃した連邦の白い悪魔の噂はシャア・アズナブルがサイド3に連絡を取るよりも早く、圧倒的な速度で瞬く間に子供たちの間を駆け巡って行った。

 

西暦2007年、天元突破グレンラガンはそんなザクの装甲ごと子供たちの胸を貫いたロボットアニメとは真逆のベクトルでテレビの前に座る彼らを納得させた。アムロ・レイガンダムの説明書を読みながら操縦し、ただ静かにザクのコックピットを貫いたのに対して、カミナは理屈など何もなくただがむしゃらも気合いだけで敵のロボットを乗っ取り、技名とも叫び声とも区別のつかぬ必殺技で敵を殲滅した。そこには何のリアリティも説得力もなかった。しかし、その姿を見た僕は何の疑問の余地も挟むことが出来なかった。ただ「そうなんだ」と一人納得してしまったのを覚えている。そう、僕はこの無茶苦茶なロボットアニメに納得してしまったのだ。

 

作中に何度かこのアニメの代名詞として「無理を通して、道理を蹴っ飛ばす」という言葉が出てくるが、これこそがまさにグレンラガンを象徴する言葉である。

のちに「螺旋力」などという言葉が登場し、なぜ彼らがあのような強大な力を発揮出来たのかが判明するがこんなものは想像力が貧困な、いや融通の利かず頭の固いなんにでもイチャモンをつけたがる捻くれたバカ共を納得させるための言葉に過ぎない。僕を含め多くの人間は螺旋力などという言葉がなくとも、最後まで何の疑問も挟まずに彼らの戦いをただ真剣な眼差しで眺めることが出来たはずである。それだけの”納得力”がグレンラガンにはあるのだから。

 

 

 

 

 

 自分が何か創作物をする際に、やはり何らかの能力をキャラクターに持たせたくなるときがある。その方が物語を進めるのに都合がよかったり、面白くなったりするからだ。しかし、そうなるとその能力に対して”納得”を得られなければいけないと僕は考える。その結果あれこれ設定を考えてはうまくいかずに大体の場合はテキストデータごとゴミ箱に行く始末である。

けれど、僕は今回受け取り手を納得させる方法がガンダムだけではないと知った。そうこれからの時代はグレンラガンなのである。

そう意気込んで僕はメモ帳を開き文章を打ち始めた。しかし、生まれたのは独りよがりな中学生が考えたような能力をいかんなく発揮する二度と開かれることのないテキストデータだった。石田衣良の小説の次に地球上で要らない文章が出来上がってしまった。

 

無理を通して、道理を蹴っ飛ばす。

 

どうにも"納得力"というやつはそう簡単なものじゃないらしい。

 

 

あの日見た花の名前は知る間も無くたった三百三十分の存在として儚く散った。

huluにて「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」が配信されていたので、土曜日を使って一気に見てしまった。結論から言って、駄作だった。そのことについて、今から話そうと思う。

 

 

 

 

以前にラブライブの二期をニコニコ動画の一挙放送で見たときの感想が「もったいない」だった。理由としては途中まで挫折と苦悩とそれを乗り越える様が描かれているにも関わらず、終わりがあまりにもあっけなさすぎたからだ。いや、あっけないという言葉すらそれこそもったいないくらいにであった。

 

そのことを知り合いに話すと彼は「それは一挙放送で見たからだよ」と答えた。「一気に見るのと実際に間隔をあけてみるのとでは訳が違うのだよ」と。

それを聞いた当時の僕はそんなわけあるもんかと大層憤慨したのを良く覚えている。一挙で見ようがリアルタイムで見ようが同じ作品の同じ映像を見たことに、代わりはないからである。しかし、その時の僕の考えは間違えていたことを今回身をもって思い知った。思い知らされた。そう僕は「あの花」を全話見たにも関わらず、あの日見た花の名前どころか登場人物の名前すら一人として鮮明に記憶していなかったからである。

 

 

あの花」は人と人との間に出来た溝を埋める話であり、止まってしまった時を再び動かす話である。故にそのためには時間がかかり、夏から始まった物語も気が付けば肌寒く感じる季節へと変わっていく。辺りを行き交う学生の姿が夏服から冬服に変わったことがそれを顕著に現している。しかし、たった330分間の出来事でしかなかった僕にとっては時間の経過などただの記号でしかなく、ただただ違和感を覚えるだけだった。そう、僕にとって『めんま』という存在が現れ、そして消えていくまでに330分しかなかったのである。

 

ふと、三谷幸喜が三夜連続放送の長時間ドラマ「我が家の歴史」の放映前に糸井重里との対談で口にしていたことを思い出したのでここに引用しておく。

 

 三谷  つまり、8時間のドラマを
   8時間かけて観ました、と。


糸井  そのとおりです。
   まぁ、CM部分の
   なにも入ってないところは、
   さすがに早送りしましたけど‥‥。


三谷  あ。それ、やっちゃったんですか?


糸井  はい‥‥‥‥えっ?


三谷  あのCMの時間が大事なんですよ。

(中略)


糸井  ほんとにおもしろかったです。
   観はじめたら、あっという間というか、
   8時間を一気に‥‥
   ま、実際には、一気にじゃなくて
   2日に分けて観たんですけど。


三谷  ええっ!


糸井  ‥‥え?


三谷  2日に分けて観ちゃいましたか‥‥。

糸井  まずかったですか‥‥
   やはり、一気に?


三谷  とんでもない!3夜連続のドラマなんですか    ら、3日に分けて観てもらわないと‥‥。


糸井  ああっ!


三谷  1回ずつ、観おわって、
   「つぎはどうなるんだろう?」という気持ちで
   1日待つっていうのが大事なんですよ。。

 

また、同対談内で糸井重里はこんなことも述べている。

 

もう時効だろうということで白状すると、
かつてぼくは『ネバーエンディングストーリー
という映画を観て感想を書く仕事のときに、
どうしても時間の都合をつけられなくて
早送りで観たことがあるんです。
時間がないから早く終わらせたくて

(中略)

早送りしたその映画を、ぼくは当時、
それほどおもしろがってなかったんですけど、
あとで観たらおもしろかったんですよ。

 引用元:ほぼ日刊イトイ新聞 - 三谷幸喜脚本の8時間ドラマ 『わが家の歴史』を、 観ると決めた。

 

 

糸井重里が三日かけるべきドラマを二日で見たように、94分の映画を早送りにしてみたように、僕はメンマと共に過ごす時間を自ら大幅に短縮してしまったのである。しかも糸井重里は「我が家の歴史」に関しては三分の二にしか短縮していないし、「ネバーエンディングストーリー」にしたって二倍速だと考えても二分の一にしか短縮していない。しかし僕が短縮したのは七十七分の七十六である。僕が短縮したのはアニメを見る時間ではなく、夏の獣として現れためんまと共に過ごす時間そのものだからだ。本来の人間が十一週、約三か月にも渡ってめんまと、超平和バスターズと過ごす時間を僕はたった一日の出来事にしてしまったのだから。

 

 

 

あの日見た花の名前は知る間も無くたった330分の存在として儚く散った。僕の手に残ったのは駄作という烙印を押された「あの花」という作品だけだった。本来、僕の胸の中に残るハズだった名作という烙印の押された「あの花」はもうこの世のどこにも存在していない。二度と会うことだって、ない。

 

 

 

 

ペットボトルロケット

まだ六月にもなっていないというのに初夏を思わせるギラギラとした太陽光が降り注ぐ中公園を散歩しているとペットボトルロケットが空高く舞い上がっていくのが見えた。

彗星を思わせる速度で垂直に上昇していく流線型のペットボトルロケットを見て、僕は「青春」の二文字を頭に浮かべた。

無論、水と圧縮された空気の反作用を動力源とするペットボトルロケットと青春との間には何の因果関係もない。ペットボトルロケットが青春であるか否かを街頭アンケートで調査したとして否定意見が九割以上に上る結果に終わるのは火を見るよりも明らかだろう。

ならば、僕の人生の中でペットボトルロケットと青春に因果性を持たせるような何らかの出来事があったのかと考察してみるがすぐにそんなことはないという結論に至る。単純な話、僕の今までの人生の中で青春と関係のある出来事が一切なかったからである。

 ならば、青春を知らない僕がなぜペットボトルロケットに青春を重ねることが出来たのだろうか? もしかしたら、と僕は考える。僕は今、自分では気づいていないだけで青春の真っ最中なのかもしれない。だからこそ、自分の中に「青春」の二文字が浮かび、その言葉の納める場所を知らない僕はふと目に付いたペットボトルロケットにその言葉を当てはめたのかもしれない。

 

そんなことを思案しているうちに、H2Oをすべて吐き出したペットボトルロケットは空中で静止するとまるで僕のこれからの青春を暗示するかのようにまっさかさまに落下し始めた。

物凄い勢いで下降していくその流線型をした”青春”は地面にぶつかり「ガラン」と情けない音を立てると悲鳴を上げながら地面をのたうち回った。ゴロゴロと転がり、風前の灯のようにゆらゆらと揺れる”青春”は、やがて事が切れたかのように動かなくなった。

 

 

チンケでチープな名作ホラー

 

久々にPS2を引っ張り出して真女神転生3をプレイしていたら横で見ていた友人が「これって主人公が喋ったりするの?」と唐突に聞いてきた。しゃべらないと答えると友人は「そっか。じゃあ、主人公が何考えてるとかわからないんだね」と残念そうに言った。なるほど、そういう考えもあるのかと思った。ポケモン生まれドラクエ育ちイーグルランド住民は大体友達な、物心ついた頃から主人公の喋らないゲームばかりやっていた僕にとって、それは新鮮な感想だった。

 

 

そこでふとある考えが過った。

以前にプレイした「魔女の家」は相当完成度の高い「アクロイド殺し」なんじゃないか? と。

 

 

魔女の家はフリーのホラーゲームである。RPGツクールで作られたチンケなフリーのホラーゲームである。故に2Dドットで描かれた主人公は喋らないし、どんな危機的状況に陥っても顔色一つ変えない。仮に主人公がほくそ笑んでいようとも、腹を抱えて笑っていようとも我々の目には、緑色をした目が二つくっついた金髪の少女の無表情な顔が映るのみである。それ以外には何もない。だから、主人公がプレイヤーに対してどんな秘密を隠していたとしても我々は怒らないし、怒れない。彼女には語る術がないのだから。彼女には、チンケなフリーのホラーゲームのキャラである彼女には表情なんてものは与えられていないのだから。

 

しかし、アクロイド殺しのシェパード医師は許されない。彼には語る口がある。一人称の視点から事件を眺めているにも関わらず、彼は最後まで嘘をつく。だから我々は結末の瞬間に怒り、わめき、この作品はダメだと駄作の烙印を押すのである。

 

しかし、それはゲームだからこそ出来たものである。仮に何らかの形で魔女の家がノベライズ化やアニメ化などのメディアミックスを図ったとき、それは駄作の烙印を押されることになるだろう。故にけして魔女の家がアクロイド殺しよりも優れた作品だというわけではない。(ホラーの要素は省かせていただくが)作中に主人公の秘密を示唆するに十分なヒントは無いし、その秘密自体も後付けされたような、フリーのチンケなホラーゲームに相応しい大したことの無い内容である。しかしながら魔女の家がアクロイド殺しには出来なかった読者(プレイヤー)を納得させることができたというその事実にもまた、違いはないのである。

 

主人公が何も喋らない時、プレイヤーは「このキャラクターを自分の分身だと思って感情移入すればいいんだ」と勝手に思いがちである。意図したのかはさておき、魔女の家はそのプレイヤーの心理を逆手に取りプレイヤーを納得させた素晴らしい作品だと言える。魔女の家がフリーのチンケなホラーゲームであろうとも、そのことだけはハッキリとここに述べておく。

 

 

シェパード医師とザ・ワールド

 

 

 

 

あまり本を読むイメージの無い同僚に冗談めかして「最近何か本読んだ?」と聞いた所「アクロイド殺しを読んだよ」と予想の斜めを行く答えが返ってきた。びっくりしている僕を後目に続けて彼は「最高に面白かったよ」と笑って口にした。素直に羨ましいなと思った。

 

アクロイド殺しはミステリ界でも屈指と名高いクソトリックを内包した作品である。

本読みが数多のアガサクリスティ作品の中からわざわざ「アクロイド殺し」を手に取るときというのはいわば近所で美味しくないと評判のお店に「まずいまずいと言われているがどれほどのものか確かめてみよう」といった気持ちである。

それ故に、アクロイド殺しを何の前情報も先入観もなく、まっさらな気持ちで楽しめる人間というのは非常に少ない。

ジョジョの第三部にもこれと同じことが言える。我々がある程度サブカルの知識を得たオタクである以上、DIOの存在を知ったときにはすでにザ・ワールドの能力までもおおよそ把握してしまっている。皮肉にも僕たちが数ある漫画からあえて「ジョジョを手に取ろう」と思った瞬間にはすでにジョセフと一緒になってDIOの能力について考察する権利を奪われているわけである。

 

勘違いされないように言っておくが僕はけしてネタバレ否定派ではない。

ブレイブストーリーを読んだときなんかは両親が離婚するのを前もって知っていたがためにスリリングに読めたし、他にも良い思いをそこそこしているからだ。

 

しかしながら僕も、アクロイド殺しの犯人が明かされたときに「そうだったのか!」と感動、ないしはアガサクリスティに怒りをぶつけたかったし、DIOの能力について真剣にジョセフと一緒に考察した上で、花京院が吹っ飛ばされるのを唖然として眺めたかったのだ。

これは、僕にアクロイド殺しを素直に「面白かった」と言えた運の良い友人がいて、それを見て羨ましがっている男がいた。ただ、それだけの話なのである。