ペットボトルロケット

創作物を咀嚼しては、ただ面白いとだけ吐き捨てた。

嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん11についての手記

 

久々に僕の目の前に現れた”それ”は、ただただかつてのファンに読んで欲しい作品だった。

 

 

 

おおよそ宗教に疎ければ、また霊感というものにも恵まれたことがないので、死こそが生けるものの最後のように思う。故に僕にとっては葬儀や、墓を建てるという文化はあくまでも死んだそのもののためでなく、残されたものに対する慰めに他ならない。

 

6年前。嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんは死んだ。


けれどそれはけして悲劇的な死ではなかった。天寿を全うしたと言っても過言ではないように思う。世の中には病死して物語の途中で終わってしまうものもあれば、3が出るだの出ないだのの情報に踊らされるファンの姿はさながら行方不明者の遺族のようでもあったし、そういったものに比べれば物語がきちんと完結して終わるということは大往生だったと言っても差し支えないだろう。

 

それでも残された者達は葬儀を、墓を求める。悲しみに蓋をするために。

 

しかしながら今日まで、僕達に墓が与えられることは無かった。みーまーの死体を前に僕らの目の前に現れたのは実写版嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんというまるで悪夢が具現化したかのような存在だった。それは僕らの墓になることなど当然なく、ただ死体を辱めるだけの存在に過ぎなかった。

 

 



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 △ 実写版嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん
原作のイメージに反してコメディ色が強く、原作ファンからの怒りを買う結果に終わった。

 


そんな僕らの前に六年経ってようやく墓石が建てられた。

嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん11はそんな作品である。


久々のみーまーを手に取り、わが青春を懐かしむように本を開く。一章を読み終わり、ふと気づく。みーくんも、まーちゃんも、出てきていないのだ。
それはさながら卒業アルバムを開きながらも、探していた当時の恋人や、親しい友人の写真だけがぽっかりと切り取られているかのような感覚だった。久々の嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんなのに、みーくんもまーちゃんも、いない。そんなことが許されるのだろうか?
赦されるのだ。だからこうして僕は文章を書いている。先にも述べたがこれはみーまーの墓石であり、葬儀である。みーくんもまーちゃんもいないことが何よりの証拠である。
だからこそ、かつてのみーまーファンには手に取ってほしいのだ。何度でも言うがみーくんもまーちゃんもいないからだ。これはシリーズの再始動を謡う作品ではなく、墓標だからである。

 

近年、ヒット作を上げた後に作品の評価に恵まれず、再び初期のヒット作に立ち戻るというクリエイターを漫画や小説などの媒体を問わず良く目にする。
入間人間もその例に溺れず初期のヒット作を上げた後、鳴かず飛ばずの日々を送っている。
にも関わらず、初期のヒット作を、嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんにしっかりとピリオドを打った点を僕は評価したい。それが彼を殺すことになったとしても、苦しめることになったとしてもだ。それがファンにとって一番素晴らしいことだろうと思うからであり、入間人間もまたそう感じたのであろうから。