ペットボトルロケット

創作物を咀嚼しては、ただ面白いとだけ吐き捨てた。

『デミアン』ヘルマン・ヘッセ

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というわけで課題図書の雑感想。

 

まず、前提としてヘッセ自身が神学校に通っていた経験があることから作品の根幹に非常に強い宗教観を感じる。故に宗教観に疎い我々いえろーもんきーにとって理解しがたい葛藤もしばしば出てくる。しかしながらそこを学ぶ、という意味も含めての名著なのかなとも思う。

 

この物語は主人公シンクレールの成長譚である。最初ヘッセはこの本をシンクレール名義で出版社に送り付けたらしく『著者シンクレールの独白』という形で物語が綴られていく。

 

 

幼少期のシンクレールはこの世界を”二つの世界”として見ていた。

一つは『父の家』である。彼は自分自身の家を明るい世界とした。『義務と罪、やましい良心とざんげ、ゆるしと善意、愛と尊敬、聖書のことばと知恵』とがある明るい清らかな、美しい、整った世界である。

もう一つの世界はそれ以外である。

そこには、並外れた、そそのかすような、恐ろしい、なぞめいたことが、色とりどり無数にあった。屠殺場と監獄、酔っぱらいと口ぎたなくののしる女、お産する雌牛、倒れた馬などのようなもの、押し込み強盗、殺人、自殺などの話があった。

しかしながらその世界は外の世界は勿論のこと家に住まう女中や職人の弟子なども含まれていた。明るい世界ともう一つの世界(ここではわかりやすく暗い世界とする)は隣り合わせだった。一人の女中は母と話したり祈りを捧げるときは明るい世界に属していたがゴシップを話しているとき、あるいは誰かと言い争いをしているとき、彼女は暗い世界に属していた。シンクレール自身も同じだった。『それは私にはしばしば親しめず気味が悪かったにせよ、私はときおり、何よりも好んで、禁じられた世界で暮らした』

 

この義務と罪~から始まる世界を明るい世界とし、それ以外の罪を暗い世界とハッキリ分けるのは宗教的考えが色濃く表れているように思える。(故によくわかんねぇ)

それ以外の”禁じられた世界”に惹かれる想いは意味が分からないにも関わらず、エロ本に強く惹かれる小学生みたいなもんだと思うし、そういった経験は誰しもが知ってると思うので割愛する。

 

 

 

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ラテン語学校に通うようになったシンクレールはある事件をきっかけとして自分より年長の学生であるデミアンと知り合う。

彼は聖書におけるアベルとカインの話はまったく別な解釈をすることも出来ると話す。彼はカインの顔には聡明なしるしのようなものがあり、それを人々は恐れたのだという。

それは年よりも大人びており、周囲に溶け込めていないデミアン自身の話なのではないか? とシンクレールは考える。しかしながらそれ以上に”聖書の別解釈”という考えと”悪とされていたカイン(=シンクレールの考える暗い世界)を肯定する考え”は彼に大きな影響を与えたのだと推測できる(無宗教マン)

そこからデミアンとシンクレールの関係は断続的になる(彼らは親友になりいつも一緒にいる、などということはなかった)

 

そのあと、そんなに面白い話がないんだけど一つ面白いなと思ったのはシンクレールが少年塾(多分今の高校くらい?)に行ってたときの話。

シンクレールは酒に溺れ、乱れた生活を送っていた。彼は善き生徒ではなく教師から見ても生徒から見ても退学は秒読みというところだった。

しかしながら彼はある出来事をきっかけに立ち直る。彼は一人の少女に恋をしたのである。

この恋はうまくいかなかった(どころかシンクレールは声すらかけなかったので名前すら知らなかった)が彼の人生に大きな影響を与えた。シンクレールは彼女にダンテの神曲に因んでベアトリーチェと名づけ彼女を崇めた。

『私は性欲のもとに悩み、たえずそれからのがれていたが、いまこの神聖な火の中で、性欲を変容させて、精神と礼拝にしようと思った。』

っていう独白が出てくるんですけど、これめっちゃ拗らせたオタクっぽくないですか?

なんなら今の僕自身が『エスちゃんさいかわでめちゃめちゃ好きでしょうがないんだけど、これに対する情熱にかこつけて過去の名著を学ぼう』みたいな感じなんですけど似通ったものを感じる。

まあだいぶ違うかなとも思うけど、こういう”暗い感情”を捻じ曲げてプラスに持ってこようとしたり、名前も知らない女にかってに名前つけて糧にしてるの、やっぱりオタクっぽくて好き。

 

 

 

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その最中シンクレールは理想のベアトリーチェを描こうと絵を始めたり、色々活動的になっていくのだけれどこの辺りから物語の焦点が『宗教的な善悪のものの見方』から『自我の探求』に映っていく。

そして、シンクレールの信仰対象は神格化したベアトリーチェから徐々にアプラクサスという神と悪魔の二面性を持った存在へとシフトしていく。

 

(これも割とオタクがこねくりだした理想論にきちんとした名前がついて力を増したって感じで好きなんだよな)

 

各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一時あるのみだった。

詩人にとして、あるいは気ちがいとして終ろうと、預言者として、あるいは犯罪者として終ろうと――それは肝要事ではなかった。

 

最終的にシンクレールは『自我の探求』に対して上記のような結論に至る。『はしがき』として最初の数ページにこうも書かれている『どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかしめいめい自分自身になろうと努めている』

したがってこれこそがヘッセのこの時点での『自我の探求』としての結論のように思える。

 

 

 

 

どう切り出したらいいかわからなくて端折ったけど、夢占い的な話が出てきたり思いのほか精神分析に傾倒している一冊だった。

ただ『ALTER EGO』がフロイト的考えを(おそらく)しているのに対して『デミアン』はユング的考えに基づく精神分析的な見地から書かれているように思える(たぶん)

 

因みに根拠はないんだけどなんでそんなことを思うかっていうと、ヘッセが1911年にスイスに移り住んでるのに対してユングは同年にスイスで国際精神分析協会を設立して会長になってるからってwikiに書いてあったからだけど!

でも当時よりも情報の伝達、明らかにおせぇだろうしデミアンが1919年に出版されたにしてもウィーンにいる奴より、同じスイスにいるやつの影響の方が高い気がする。知らんけど。

その辺りはまあ両方の入門書とか読めばわかるだろうし、メモとしてとりあえず残しておく。おしまい