ペットボトルロケット

創作物を咀嚼しては、ただ面白いとだけ吐き捨てた。

”現実の異世界”を旅するのに必要なのは

 

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物理学者・早野龍五が福島で示した光――研究者として福島に向き合うということ / 服部美咲 / フリーライター (1/3)

 

いい記事だったので載っけておく。

 

3.11は僕にとって何か特別な日ではない。自転車に乗って公道を走っている最中だったがために地震が起きていることも気が付かなかったし、自分と関係のある人間が被害にあったわけでもないからだ。それはこうして文章に表すと酷く冷淡な人間なように映るけれど、多くの日本人が僕と同じ気持ちなんじゃないかと思う。

それでも、僕が”福島のその後”に定期的に目を向ける機会があるのは『ほぼ日刊イトイ新聞』が発信を続けているからだ。しかもそれは3.11が近づく度に公共の電波を通じてテレビ放送で流れるような視聴者の感傷を促すようなものではなく、今の福島をありのままに伝えるものだった。だからそれが視界の端に入って来ても目障りだなんて思わなかった。結果として僕は無意識ながらも定期的に”福島の今”を目にすることになった。

ほぼ日の読者数は公表されていないのでわからないのでほぼ日の代表取締役である糸井重里氏のTwitterを参考にしてみようと思う。氏のtwitterフォロワー数は200万近い数字をたたき出している。この200万人の多くが僕と同じように同じ気持ちで福島の今を捉えてるんじゃないだろうか。

 

何故糸井重里にそんなことが出来たのか? その答えは簡単である。糸井重里があの日、あの時考えたからだ。自分の頭を使って「自分に何か出来ないか?」と。

 

上記に『3.11は僕にとって何か特別な日ではない。』と語った。それは僕にとって真実だし、多くの日本人にとってもまたそうだと思う。

でも、その後続いた閉塞感と底知れぬ緊張感は誰もが経験したはずだ。テレビをつければ東日本大震災の特番とACジャパンのCMが流れ続けた3.12以降。

逆に言えば『3.12以降は多くの日本人にとって特別な期間だった』と言える。

多くの人間が糸井重里と同じように頭を悩ませたはずである。「自分に何か出来ないか?」と。当時何も出来ない高校生だった僕ですらもそのことについて思い悩み、生まれて初めて微量ながらに募金をした。それくらいあの時の閉塞感とACジャパンのCMが煽る不安感というものは凄まじかったのだ。それはACジャパンのCM数が激減する4月上旬まで続いた。

 

 

 

 

 

あのとき「何も出来ない高校生」だった僕は社会人になった。でも、もし今”あのとき”が僕らを思い悩ませた”3.12以降のあの期間”がやってきたとしたら何か出来るのだろうか? おそらく「何も出来ない高校生」が「何も出来ない社会人」になるだけなんじゃないかと思う。募金の額が少し増えるくらいだ。それはそれで意味のある事なんだろうけれど。

 

 あのとき頭を悩ませ、自分の出来ることをしようと決めた人間は他にもいる。

ぼくは『ほぼ日』を通じてしか福島を捉えていないから詳しくは分からないが文頭の記事に上がっている早野龍五もそうだし、西條剛央なんて自分の分野と震災後の復興とを本当にうまく結び付けた人物だと思う。つまるところそれはあの期間「自分に何か出来ないか?」をより多く自問自答し続けたということだろう。

 

ほぼ日刊イトイ新聞 - 西條剛央さんの、すんごいアイディア。

 

 

酷く失礼な話だけれど僕が糸井重里や早野龍五なら福島に貢献することはそこまで難しい話でもないように思える。でも、僕が西條剛央だったら? おそらく何も出来ずに見守るだけでそのうち仕事に戻り、いつもの日常へと徐々に戻っていくだけな気がする。

 

 

話は変わるがぼくみたいなオタクは良く妄想をする。例えば「自分が異世界に行ったらどうしよう?」とかそんな内容である。多分それはぼくに限った話ではないはずだ。その証拠に『異世界物』のアニメや漫画が定量的に消費されている。近年でいえば『Re:ゼロから始める異世界生活』なんかがそうだろう。

 

 

 

 

3.12以降のあのとき。日本は間違いなく異世界だった。そこで自分に何か出来ないかを考え、何かをした人間がいた。何もしなかった(出来なかった)人間もいた。それは保有する能力(知識)と、能力の扱い方(知恵)と、行動力の差から生まれたものだった。

あのときの混沌とした異世界で西條剛央保有する能力を視聴者の思いもよらぬ方法で扱い異世界の旅を切り抜け、多くの人間を救った。それは一つの異世界ファンタジーだった。

だから、もしぼくらオタクが異世界の冒険を夢見るのであれば知識と知識の扱い方と行動力が伴っていなければならない。

”現実の異世界”は平凡な高校生が世界を救える程に甘くはないからだ。

 

 

 

 

 

 

月日は過ぎれど

文章を書く練習がしたいし、このブログの更新を再開することにする。

 

そんな旨の記事を書こうと決心してからすでに一月が経過しているのだけれど、という書き出しを思いついてからすでに二月が過ぎた。

と綴った半年前の下書きが出てきたので更新しておく。

 

まあ、月日は過ぎれど今の気分はそんな感じなのでまたよろしく

 

 

無理を通して納得を得る

 

西暦1979年、機動戦士ガンダムは細部にまで拘ったその圧倒的リアリティから来る説得力によってテレビの前の人々を納得させた。何の必殺技を叫ぶこともなく、ザクを静かに一閃した連邦の白い悪魔の噂はシャア・アズナブルがサイド3に連絡を取るよりも早く、圧倒的な速度で瞬く間に子供たちの間を駆け巡って行った。

 

西暦2007年、天元突破グレンラガンはそんなザクの装甲ごと子供たちの胸を貫いたロボットアニメとは真逆のベクトルでテレビの前に座る彼らを納得させた。アムロ・レイガンダムの説明書を読みながら操縦し、ただ静かにザクのコックピットを貫いたのに対して、カミナは理屈など何もなくただがむしゃらも気合いだけで敵のロボットを乗っ取り、技名とも叫び声とも区別のつかぬ必殺技で敵を殲滅した。そこには何のリアリティも説得力もなかった。しかし、その姿を見た僕は何の疑問の余地も挟むことが出来なかった。ただ「そうなんだ」と一人納得してしまったのを覚えている。そう、僕はこの無茶苦茶なロボットアニメに納得してしまったのだ。

 

作中に何度かこのアニメの代名詞として「無理を通して、道理を蹴っ飛ばす」という言葉が出てくるが、これこそがまさにグレンラガンを象徴する言葉である。

のちに「螺旋力」などという言葉が登場し、なぜ彼らがあのような強大な力を発揮出来たのかが判明するがこんなものは想像力が貧困な、いや融通の利かず頭の固いなんにでもイチャモンをつけたがる捻くれたバカ共を納得させるための言葉に過ぎない。僕を含め多くの人間は螺旋力などという言葉がなくとも、最後まで何の疑問も挟まずに彼らの戦いをただ真剣な眼差しで眺めることが出来たはずである。それだけの”納得力”がグレンラガンにはあるのだから。

 

 

 

 

 

 自分が何か創作物をする際に、やはり何らかの能力をキャラクターに持たせたくなるときがある。その方が物語を進めるのに都合がよかったり、面白くなったりするからだ。しかし、そうなるとその能力に対して”納得”を得られなければいけないと僕は考える。その結果あれこれ設定を考えてはうまくいかずに大体の場合はテキストデータごとゴミ箱に行く始末である。

けれど、僕は今回受け取り手を納得させる方法がガンダムだけではないと知った。そうこれからの時代はグレンラガンなのである。

そう意気込んで僕はメモ帳を開き文章を打ち始めた。しかし、生まれたのは独りよがりな中学生が考えたような能力をいかんなく発揮する二度と開かれることのないテキストデータだった。石田衣良の小説の次に地球上で要らない文章が出来上がってしまった。

 

無理を通して、道理を蹴っ飛ばす。

 

どうにも"納得力"というやつはそう簡単なものじゃないらしい。

 

 

あの日見た花の名前は知る間も無くたった三百三十分の存在として儚く散った。

huluにて「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」が配信されていたので、土曜日を使って一気に見てしまった。結論から言って、駄作だった。そのことについて、今から話そうと思う。

 

 

 

 

以前にラブライブの二期をニコニコ動画の一挙放送で見たときの感想が「もったいない」だった。理由としては途中まで挫折と苦悩とそれを乗り越える様が描かれているにも関わらず、終わりがあまりにもあっけなさすぎたからだ。いや、あっけないという言葉すらそれこそもったいないくらいにであった。

 

そのことを知り合いに話すと彼は「それは一挙放送で見たからだよ」と答えた。「一気に見るのと実際に間隔をあけてみるのとでは訳が違うのだよ」と。

それを聞いた当時の僕はそんなわけあるもんかと大層憤慨したのを良く覚えている。一挙で見ようがリアルタイムで見ようが同じ作品の同じ映像を見たことに、代わりはないからである。しかし、その時の僕の考えは間違えていたことを今回身をもって思い知った。思い知らされた。そう僕は「あの花」を全話見たにも関わらず、あの日見た花の名前どころか登場人物の名前すら一人として鮮明に記憶していなかったからである。

 

 

あの花」は人と人との間に出来た溝を埋める話であり、止まってしまった時を再び動かす話である。故にそのためには時間がかかり、夏から始まった物語も気が付けば肌寒く感じる季節へと変わっていく。辺りを行き交う学生の姿が夏服から冬服に変わったことがそれを顕著に現している。しかし、たった330分間の出来事でしかなかった僕にとっては時間の経過などただの記号でしかなく、ただただ違和感を覚えるだけだった。そう、僕にとって『めんま』という存在が現れ、そして消えていくまでに330分しかなかったのである。

 

ふと、三谷幸喜が三夜連続放送の長時間ドラマ「我が家の歴史」の放映前に糸井重里との対談で口にしていたことを思い出したのでここに引用しておく。

 

 三谷  つまり、8時間のドラマを
   8時間かけて観ました、と。


糸井  そのとおりです。
   まぁ、CM部分の
   なにも入ってないところは、
   さすがに早送りしましたけど‥‥。


三谷  あ。それ、やっちゃったんですか?


糸井  はい‥‥‥‥えっ?


三谷  あのCMの時間が大事なんですよ。

(中略)


糸井  ほんとにおもしろかったです。
   観はじめたら、あっという間というか、
   8時間を一気に‥‥
   ま、実際には、一気にじゃなくて
   2日に分けて観たんですけど。


三谷  ええっ!


糸井  ‥‥え?


三谷  2日に分けて観ちゃいましたか‥‥。

糸井  まずかったですか‥‥
   やはり、一気に?


三谷  とんでもない!3夜連続のドラマなんですか    ら、3日に分けて観てもらわないと‥‥。


糸井  ああっ!


三谷  1回ずつ、観おわって、
   「つぎはどうなるんだろう?」という気持ちで
   1日待つっていうのが大事なんですよ。。

 

また、同対談内で糸井重里はこんなことも述べている。

 

もう時効だろうということで白状すると、
かつてぼくは『ネバーエンディングストーリー
という映画を観て感想を書く仕事のときに、
どうしても時間の都合をつけられなくて
早送りで観たことがあるんです。
時間がないから早く終わらせたくて

(中略)

早送りしたその映画を、ぼくは当時、
それほどおもしろがってなかったんですけど、
あとで観たらおもしろかったんですよ。

 引用元:ほぼ日刊イトイ新聞 - 三谷幸喜脚本の8時間ドラマ 『わが家の歴史』を、 観ると決めた。

 

 

糸井重里が三日かけるべきドラマを二日で見たように、94分の映画を早送りにしてみたように、僕はメンマと共に過ごす時間を自ら大幅に短縮してしまったのである。しかも糸井重里は「我が家の歴史」に関しては三分の二にしか短縮していないし、「ネバーエンディングストーリー」にしたって二倍速だと考えても二分の一にしか短縮していない。しかし僕が短縮したのは七十七分の七十六である。僕が短縮したのはアニメを見る時間ではなく、夏の獣として現れためんまと共に過ごす時間そのものだからだ。本来の人間が十一週、約三か月にも渡ってめんまと、超平和バスターズと過ごす時間を僕はたった一日の出来事にしてしまったのだから。

 

 

 

あの日見た花の名前は知る間も無くたった330分の存在として儚く散った。僕の手に残ったのは駄作という烙印を押された「あの花」という作品だけだった。本来、僕の胸の中に残るハズだった名作という烙印の押された「あの花」はもうこの世のどこにも存在していない。二度と会うことだって、ない。

 

 

 

 

ペットボトルロケット

まだ六月にもなっていないというのに初夏を思わせるギラギラとした太陽光が降り注ぐ中公園を散歩しているとペットボトルロケットが空高く舞い上がっていくのが見えた。

彗星を思わせる速度で垂直に上昇していく流線型のペットボトルロケットを見て、僕は「青春」の二文字を頭に浮かべた。

無論、水と圧縮された空気の反作用を動力源とするペットボトルロケットと青春との間には何の因果関係もない。ペットボトルロケットが青春であるか否かを街頭アンケートで調査したとして否定意見が九割以上に上る結果に終わるのは火を見るよりも明らかだろう。

ならば、僕の人生の中でペットボトルロケットと青春に因果性を持たせるような何らかの出来事があったのかと考察してみるがすぐにそんなことはないという結論に至る。単純な話、僕の今までの人生の中で青春と関係のある出来事が一切なかったからである。

 ならば、青春を知らない僕がなぜペットボトルロケットに青春を重ねることが出来たのだろうか? もしかしたら、と僕は考える。僕は今、自分では気づいていないだけで青春の真っ最中なのかもしれない。だからこそ、自分の中に「青春」の二文字が浮かび、その言葉の納める場所を知らない僕はふと目に付いたペットボトルロケットにその言葉を当てはめたのかもしれない。

 

そんなことを思案しているうちに、H2Oをすべて吐き出したペットボトルロケットは空中で静止するとまるで僕のこれからの青春を暗示するかのようにまっさかさまに落下し始めた。

物凄い勢いで下降していくその流線型をした”青春”は地面にぶつかり「ガラン」と情けない音を立てると悲鳴を上げながら地面をのたうち回った。ゴロゴロと転がり、風前の灯のようにゆらゆらと揺れる”青春”は、やがて事が切れたかのように動かなくなった。

 

 

チンケでチープな名作ホラー

 

久々にPS2を引っ張り出して真女神転生3をプレイしていたら横で見ていた友人が「これって主人公が喋ったりするの?」と唐突に聞いてきた。しゃべらないと答えると友人は「そっか。じゃあ、主人公が何考えてるとかわからないんだね」と残念そうに言った。なるほど、そういう考えもあるのかと思った。ポケモン生まれドラクエ育ちイーグルランド住民は大体友達な、物心ついた頃から主人公の喋らないゲームばかりやっていた僕にとって、それは新鮮な感想だった。

 

 

そこでふとある考えが過った。

以前にプレイした「魔女の家」は相当完成度の高い「アクロイド殺し」なんじゃないか? と。

 

 

魔女の家はフリーのホラーゲームである。RPGツクールで作られたチンケなフリーのホラーゲームである。故に2Dドットで描かれた主人公は喋らないし、どんな危機的状況に陥っても顔色一つ変えない。仮に主人公がほくそ笑んでいようとも、腹を抱えて笑っていようとも我々の目には、緑色をした目が二つくっついた金髪の少女の無表情な顔が映るのみである。それ以外には何もない。だから、主人公がプレイヤーに対してどんな秘密を隠していたとしても我々は怒らないし、怒れない。彼女には語る術がないのだから。彼女には、チンケなフリーのホラーゲームのキャラである彼女には表情なんてものは与えられていないのだから。

 

しかし、アクロイド殺しのシェパード医師は許されない。彼には語る口がある。一人称の視点から事件を眺めているにも関わらず、彼は最後まで嘘をつく。だから我々は結末の瞬間に怒り、わめき、この作品はダメだと駄作の烙印を押すのである。

 

しかし、それはゲームだからこそ出来たものである。仮に何らかの形で魔女の家がノベライズ化やアニメ化などのメディアミックスを図ったとき、それは駄作の烙印を押されることになるだろう。故にけして魔女の家がアクロイド殺しよりも優れた作品だというわけではない。(ホラーの要素は省かせていただくが)作中に主人公の秘密を示唆するに十分なヒントは無いし、その秘密自体も後付けされたような、フリーのチンケなホラーゲームに相応しい大したことの無い内容である。しかしながら魔女の家がアクロイド殺しには出来なかった読者(プレイヤー)を納得させることができたというその事実にもまた、違いはないのである。

 

主人公が何も喋らない時、プレイヤーは「このキャラクターを自分の分身だと思って感情移入すればいいんだ」と勝手に思いがちである。意図したのかはさておき、魔女の家はそのプレイヤーの心理を逆手に取りプレイヤーを納得させた素晴らしい作品だと言える。魔女の家がフリーのチンケなホラーゲームであろうとも、そのことだけはハッキリとここに述べておく。