ペットボトルロケット

創作物を咀嚼しては、ただ面白いとだけ吐き捨てた。

とにかく出力出来るオタクはえらい

とにかく毎日文章を書く癖はつけようってことでこのブログだけはまあ当分続けようとは思う。どれまで続くか知らんけど。

もう一個の方はちゃんとした記事書こうとしたばっかりに肥やしだけが積み重なる一方なので、いずれこういう形で雑に書きなぐる場所は設けようかと思ってたし丁度良いと言えば丁度良い。

タイトルにもあるけど、とにかく出力出来るオタクは偉いと思う。こんな毒にも薬にもならない文章を書いている僕だって、昨日までの何もしないでママの作ってくれたご飯(創作物)を食べてるだけのオタクよりは偉いと思う。

 

 

ブイヨンの話

 

毎日、というわけでもないのだけれど昔からちょいちょいほぼ日を読んでいる身としてはいつ訪れるかと恐れていたことではあったのだが糸井重里の愛犬であるブイヨンが亡くなった。調べてみると三月末のことであるから約半年前のことである。一応自称ほぼ毎日ほぼ日読んでる僕の名誉のために言わせて頂くとそれを僕が今更ここに書くのはけして今知ったからではない。単に書くべき場所と理由がなかっただけのことだ。真っ白なブログページを前にしてふと思い出したから書こうと思ったのだ。

僕は個人として(というのも変な言い方だけれど)ほぼ日を楽しんでいるので、僕以外の人間がほぼ日のコンテンツや糸井重里をどのように評価していたり、楽しまれていたり、あるいは憤られているのかはわからない。けれども「ブイヨンからのおれいツアー」と称して日本の主要都市を跨ぎ歩いていたのは良いことのように映らなかった人も多かったんじゃないかと思う。

 

 

www.1101.com

 

前述した通り僕は僕以外がほぼ日についてどう思っているのかはわからない。だけれどこの企画はまずブイヨンのいなくなった日常を糸井重里が受け入れられていないようで(そうして実際受け入れられていないのだろう)見ているだけで酷く辛い想いになってくるし、そうでなくてもブイヨンの死までも利用とした金儲けのようにも見えてくる。前者はともかく、後者の話に至ってはブイヨンの死を辱めているんじゃないかとか、亡くなった犬に対して失礼だとかそんな言葉さえ出てきそうだ。

 

 

ブイヨン展は糸井重里にとっての馬頭琴である

 

僕はこの問題について考えていたときにふと国語の時間にやった「スーホーの白い馬

」を思い出した。覚えていない人のためにあらすじを一応書くと「スーホーという少年の飼っていた馬がいたが王族に取り上げられ殺されてしまい、夢に出てきた馬の言う通り馬の亡骸を使って馬頭琴という楽器を作る」という話である。

この物語はスーホーと馬がいつまでも一緒にいられました。という形で話が締めくくられる。スーホーが馬頭琴を奏でると馬の蹄の音や草原を駆け回った楽しさが思い出されたからだ。

 

ブイヨン展は大事な、まるで自分の子供のように愛していた犬を失った糸井重里馬頭琴作りの過程のようにその当時の僕には思えた。

 

ブイヨンだけではない。現実の人間に対してもさることながら、キャラクターの死に関しても同じようなことが言えるのではないだろうか。

 

例えばの話オルガ=イツカの死亡シーンをコンテンツとしている人々に(おそらくオルガ=イツカのことを好きな人が)「不謹慎だ!!」と声を上げる人もいるらしい。

しかしながらこれらのコンテンツは馬頭琴と言えるのではないだろうか。オルガ=イツカの物語からの退場を許容できない人間たち、すなわちオルガ=イツカを愛する人たちにより善なる行為なのである。

 

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 僕が馬頭琴って言うからには馬頭琴です。

 

 

 

もう端的に言うと途中まで良い記事のように書いてきたけど、僕は道徳が不十分な人間なのでキャラクターの死やら人の死やらをコンテンツにしてるのを指さして「不謹慎だ!!!」と騒ぐ輩に「これは馬頭琴じゃ!!!”スーホーの白い馬”知らんか????」って言いたい。それだけです。

こんな風にいつか使いたい言葉、考え、を適当に書いていこうと思います。たまに本とかゲームのレビューしたいと思います。それじゃあまた。

 

 

twitterとオンラインゲームを辞めたら僕の周りが真っ白になった

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もうね、いかに自分の世界が狭いかって話なんですよ。前々からその自覚はあったんだけど、それが顕著に出てしまったものだからだいぶ笑ってしまった。ボタン一つでtwitter消してもう一つ押してオンラインゲームをアンインストールしたらこれですよ。サムネにも置いてるトップの画像は真女神転生デビルチルドレンってゲームで世界をやり直す選択肢を取ったときのものなんですけど、まさにこんな感じ。周りの世界が真っ白になってしまって困った。

 

勿論仕事はしてるから明日職場に行けば嫌でも人とかかわるんだけど、そうじゃないんだよなーって感じ。なんならやることがないからこうして昔のブログを引っ張り出してきて日記書いちゃったりしてる。そのくらい何もなくなってしまった。

 

最近はだいぶゲームにも疲れてた感じがあったし、どうやって生きていこうかみたいなのはまあボチボチ決めていくとしよう。

 

何やっても出力する場所がないので今後はここに出力していく形にする。それじゃあまた。

 

 

 

 

嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん11についての手記

 

久々に僕の目の前に現れた”それ”は、ただただかつてのファンに読んで欲しい作品だった。

 

 

 

おおよそ宗教に疎ければ、また霊感というものにも恵まれたことがないので、死こそが生けるものの最後のように思う。故に僕にとっては葬儀や、墓を建てるという文化はあくまでも死んだそのもののためでなく、残されたものに対する慰めに他ならない。

 

6年前。嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんは死んだ。


けれどそれはけして悲劇的な死ではなかった。天寿を全うしたと言っても過言ではないように思う。世の中には病死して物語の途中で終わってしまうものもあれば、3が出るだの出ないだのの情報に踊らされるファンの姿はさながら行方不明者の遺族のようでもあったし、そういったものに比べれば物語がきちんと完結して終わるということは大往生だったと言っても差し支えないだろう。

 

それでも残された者達は葬儀を、墓を求める。悲しみに蓋をするために。

 

しかしながら今日まで、僕達に墓が与えられることは無かった。みーまーの死体を前に僕らの目の前に現れたのは実写版嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんというまるで悪夢が具現化したかのような存在だった。それは僕らの墓になることなど当然なく、ただ死体を辱めるだけの存在に過ぎなかった。

 

 



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 △ 実写版嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん
原作のイメージに反してコメディ色が強く、原作ファンからの怒りを買う結果に終わった。

 


そんな僕らの前に六年経ってようやく墓石が建てられた。

嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん11はそんな作品である。


久々のみーまーを手に取り、わが青春を懐かしむように本を開く。一章を読み終わり、ふと気づく。みーくんも、まーちゃんも、出てきていないのだ。
それはさながら卒業アルバムを開きながらも、探していた当時の恋人や、親しい友人の写真だけがぽっかりと切り取られているかのような感覚だった。久々の嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんなのに、みーくんもまーちゃんも、いない。そんなことが許されるのだろうか?
赦されるのだ。だからこうして僕は文章を書いている。先にも述べたがこれはみーまーの墓石であり、葬儀である。みーくんもまーちゃんもいないことが何よりの証拠である。
だからこそ、かつてのみーまーファンには手に取ってほしいのだ。何度でも言うがみーくんもまーちゃんもいないからだ。これはシリーズの再始動を謡う作品ではなく、墓標だからである。

 

近年、ヒット作を上げた後に作品の評価に恵まれず、再び初期のヒット作に立ち戻るというクリエイターを漫画や小説などの媒体を問わず良く目にする。
入間人間もその例に溺れず初期のヒット作を上げた後、鳴かず飛ばずの日々を送っている。
にも関わらず、初期のヒット作を、嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんにしっかりとピリオドを打った点を僕は評価したい。それが彼を殺すことになったとしても、苦しめることになったとしてもだ。それがファンにとって一番素晴らしいことだろうと思うからであり、入間人間もまたそう感じたのであろうから。

 

”現実の異世界”を旅するのに必要なのは

 

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物理学者・早野龍五が福島で示した光――研究者として福島に向き合うということ / 服部美咲 / フリーライター (1/3)

 

いい記事だったので載っけておく。

 

3.11は僕にとって何か特別な日ではない。自転車に乗って公道を走っている最中だったがために地震が起きていることも気が付かなかったし、自分と関係のある人間が被害にあったわけでもないからだ。それはこうして文章に表すと酷く冷淡な人間なように映るけれど、多くの日本人が僕と同じ気持ちなんじゃないかと思う。

それでも、僕が”福島のその後”に定期的に目を向ける機会があるのは『ほぼ日刊イトイ新聞』が発信を続けているからだ。しかもそれは3.11が近づく度に公共の電波を通じてテレビ放送で流れるような視聴者の感傷を促すようなものではなく、今の福島をありのままに伝えるものだった。だからそれが視界の端に入って来ても目障りだなんて思わなかった。結果として僕は無意識ながらも定期的に”福島の今”を目にすることになった。

ほぼ日の読者数は公表されていないのでわからないのでほぼ日の代表取締役である糸井重里氏のTwitterを参考にしてみようと思う。氏のtwitterフォロワー数は200万近い数字をたたき出している。この200万人の多くが僕と同じように同じ気持ちで福島の今を捉えてるんじゃないだろうか。

 

何故糸井重里にそんなことが出来たのか? その答えは簡単である。糸井重里があの日、あの時考えたからだ。自分の頭を使って「自分に何か出来ないか?」と。

 

上記に『3.11は僕にとって何か特別な日ではない。』と語った。それは僕にとって真実だし、多くの日本人にとってもまたそうだと思う。

でも、その後続いた閉塞感と底知れぬ緊張感は誰もが経験したはずだ。テレビをつければ東日本大震災の特番とACジャパンのCMが流れ続けた3.12以降。

逆に言えば『3.12以降は多くの日本人にとって特別な期間だった』と言える。

多くの人間が糸井重里と同じように頭を悩ませたはずである。「自分に何か出来ないか?」と。当時何も出来ない高校生だった僕ですらもそのことについて思い悩み、生まれて初めて微量ながらに募金をした。それくらいあの時の閉塞感とACジャパンのCMが煽る不安感というものは凄まじかったのだ。それはACジャパンのCM数が激減する4月上旬まで続いた。

 

 

 

 

 

あのとき「何も出来ない高校生」だった僕は社会人になった。でも、もし今”あのとき”が僕らを思い悩ませた”3.12以降のあの期間”がやってきたとしたら何か出来るのだろうか? おそらく「何も出来ない高校生」が「何も出来ない社会人」になるだけなんじゃないかと思う。募金の額が少し増えるくらいだ。それはそれで意味のある事なんだろうけれど。

 

 あのとき頭を悩ませ、自分の出来ることをしようと決めた人間は他にもいる。

ぼくは『ほぼ日』を通じてしか福島を捉えていないから詳しくは分からないが文頭の記事に上がっている早野龍五もそうだし、西條剛央なんて自分の分野と震災後の復興とを本当にうまく結び付けた人物だと思う。つまるところそれはあの期間「自分に何か出来ないか?」をより多く自問自答し続けたということだろう。

 

ほぼ日刊イトイ新聞 - 西條剛央さんの、すんごいアイディア。

 

 

酷く失礼な話だけれど僕が糸井重里や早野龍五なら福島に貢献することはそこまで難しい話でもないように思える。でも、僕が西條剛央だったら? おそらく何も出来ずに見守るだけでそのうち仕事に戻り、いつもの日常へと徐々に戻っていくだけな気がする。

 

 

話は変わるがぼくみたいなオタクは良く妄想をする。例えば「自分が異世界に行ったらどうしよう?」とかそんな内容である。多分それはぼくに限った話ではないはずだ。その証拠に『異世界物』のアニメや漫画が定量的に消費されている。近年でいえば『Re:ゼロから始める異世界生活』なんかがそうだろう。

 

 

 

 

3.12以降のあのとき。日本は間違いなく異世界だった。そこで自分に何か出来ないかを考え、何かをした人間がいた。何もしなかった(出来なかった)人間もいた。それは保有する能力(知識)と、能力の扱い方(知恵)と、行動力の差から生まれたものだった。

あのときの混沌とした異世界で西條剛央保有する能力を視聴者の思いもよらぬ方法で扱い異世界の旅を切り抜け、多くの人間を救った。それは一つの異世界ファンタジーだった。

だから、もしぼくらオタクが異世界の冒険を夢見るのであれば知識と知識の扱い方と行動力が伴っていなければならない。

”現実の異世界”は平凡な高校生が世界を救える程に甘くはないからだ。

 

 

 

 

 

 

正論

誰かが創作に対する批判をするがそれが正しい言葉であればあるほど僕らは何も言えずに立ち尽くす。

正論は暴力だ。僕が彼らに対抗するためには今すぐゲーム機を放り投げてアメリカンフットボールでもやるしかない。

月日は過ぎれど

文章を書く練習がしたいし、このブログの更新を再開することにする。

 

そんな旨の記事を書こうと決心してからすでに一月が経過しているのだけれど、という書き出しを思いついてからすでに二月が過ぎた。

と綴った半年前の下書きが出てきたので更新しておく。

 

まあ、月日は過ぎれど今の気分はそんな感じなのでまたよろしく

 

 

無理を通して納得を得る

 

西暦1979年、機動戦士ガンダムは細部にまで拘ったその圧倒的リアリティから来る説得力によってテレビの前の人々を納得させた。何の必殺技を叫ぶこともなく、ザクを静かに一閃した連邦の白い悪魔の噂はシャア・アズナブルがサイド3に連絡を取るよりも早く、圧倒的な速度で瞬く間に子供たちの間を駆け巡って行った。

 

西暦2007年、天元突破グレンラガンはそんなザクの装甲ごと子供たちの胸を貫いたロボットアニメとは真逆のベクトルでテレビの前に座る彼らを納得させた。アムロ・レイガンダムの説明書を読みながら操縦し、ただ静かにザクのコックピットを貫いたのに対して、カミナは理屈など何もなくただがむしゃらも気合いだけで敵のロボットを乗っ取り、技名とも叫び声とも区別のつかぬ必殺技で敵を殲滅した。そこには何のリアリティも説得力もなかった。しかし、その姿を見た僕は何の疑問の余地も挟むことが出来なかった。ただ「そうなんだ」と一人納得してしまったのを覚えている。そう、僕はこの無茶苦茶なロボットアニメに納得してしまったのだ。

 

作中に何度かこのアニメの代名詞として「無理を通して、道理を蹴っ飛ばす」という言葉が出てくるが、これこそがまさにグレンラガンを象徴する言葉である。

のちに「螺旋力」などという言葉が登場し、なぜ彼らがあのような強大な力を発揮出来たのかが判明するがこんなものは想像力が貧困な、いや融通の利かず頭の固いなんにでもイチャモンをつけたがる捻くれたバカ共を納得させるための言葉に過ぎない。僕を含め多くの人間は螺旋力などという言葉がなくとも、最後まで何の疑問も挟まずに彼らの戦いをただ真剣な眼差しで眺めることが出来たはずである。それだけの”納得力”がグレンラガンにはあるのだから。

 

 

 

 

 

 自分が何か創作物をする際に、やはり何らかの能力をキャラクターに持たせたくなるときがある。その方が物語を進めるのに都合がよかったり、面白くなったりするからだ。しかし、そうなるとその能力に対して”納得”を得られなければいけないと僕は考える。その結果あれこれ設定を考えてはうまくいかずに大体の場合はテキストデータごとゴミ箱に行く始末である。

けれど、僕は今回受け取り手を納得させる方法がガンダムだけではないと知った。そうこれからの時代はグレンラガンなのである。

そう意気込んで僕はメモ帳を開き文章を打ち始めた。しかし、生まれたのは独りよがりな中学生が考えたような能力をいかんなく発揮する二度と開かれることのないテキストデータだった。石田衣良の小説の次に地球上で要らない文章が出来上がってしまった。

 

無理を通して、道理を蹴っ飛ばす。

 

どうにも"納得力"というやつはそう簡単なものじゃないらしい。